| ラタナコーシン王朝(続き) | ||||||||
| 5月5日は、現国王ラーマ9世の即位記念日で、タイでは祭日です。 ラーマ8世(兄君)のあとを継がれたラーマ9世が王位につかれたのは 1946年でした。56年間も在位しておられますので、タイ国史上、 最長の国王として、タイ国民の篤き敬愛の念をあつめておられます。 では、ラーマ6世からラーマ9世までのお話を続けさせていただきます。 出典元は、前回に引き続き、『世界の歴史』―インドシナ文明の世界― (講談社)からであります。 |
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| ラーマ6世時代(1910−1925) ラーマ5世の後継者となったワチラウット王ラーマ6世は、外国留学 を経験した最初のタイ国王である。13歳で渡英した彼は、21歳に至る 9ヵ年のイギリス滞在の間に、陸軍士官学校やオクスフォード大学に学んだ。 彼は皇太子ではなかったが、異母兄の死去によって王位継承者となり、 1885年、ロンドンのタイ国公使館において立太子の礼をあげた。 こうした青春期における外国生活の影響は、国王となった彼の思想と行動 の上にも濃いかげを投げかけている。 ワチラウット王は文人であった。生涯において、200以上の作品を 書いたが、その中にはシェークスピアの翻訳も多数あった。彼はまた、 多くの政治評論を残しているが、とくに1914年に執筆された「東洋 のユダヤ人」は、タイ・ナショナリズムの方向を、反華僑に設定した 最初の論文として注目される。 しかしながら、政治家としての能力に欠けており、無責任な国政を しいたため、各方面から強い反発を招いた。1912年には、タイ国軍 の青年将校たちによるクーデタ未遂事件まで発生した。 ラーマ6世の治績において評価すべき点は、タイが第一次世界大戦 に名目的に参加することにより、勝利国の一員としてヴェルサイユ会議 に連なったこと、そしてこのときの外交努力が、1925年から1926 年にかけて行われた不平等条約改正となって結実したことであろう。 しかし彼の放漫な国家財政の運用は、やがてタイの絶対王政を転覆させる 条件をつくり出していくのであった。 |
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| (補足)英国留学を終えたラーマ6世は、アメリカ経由で帰路につき 日本にも立ち寄られ、大いに見聞を広め、なかなかの親日派となられた。 (吉川 敬子) |
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| ラーマ7世(1925−1935) 1925年、ラーマ6世は後継ぎを得ぬまま44年の生涯を終えた。 プラーチャーティポックという弟君がラーマ7世として即位した。しかし その即位の瞬間から、新王は悲劇の人となることが運命づけられていた。 気まぐれな兄王の任命した大臣たちに代わり、ラーマ7世の閣僚となった のは、返り咲きの叔父たちであった。だが不幸なことにこれを押えるだけ の器量を、彼は持ち合わせていなかった。しかも彼が継承したタイの国家 財政は、兄王の濫費によって疲弊しきっていた。その再建を目指す彼の 努力はことごとに不評を買った。加うるに世界大恐慌の発生である。タイ の主要輸出産品である米の価格は下落し、不満は社会の各層にうっせきし ていった。ラタナコーシン王朝は150年で滅亡するという噂がまこと しやかに人々の間にひろまったのはこの頃のことである。たまたま 1932年が、王朝創設以来150年目にあたっていたのである。 そして、ついに1932年6月24日、「立憲クーデタ」が起こった。 クーデタは無血裡に終了した。当時、ホワヒンの離宮にいたラーマ7世に 対しては、立憲君主制の樹立をうたった人民党の最後通牒がとどけられ、 国王はその要求を受諾した。1932年12月、タイ国最初の「永久」憲法 が制定された。クーデタ後、1933年6月20日、人民党による第2回目 のクーデタが発生した。1934年1月、失意の国王は眼疾治療を名目として 渡英し、1935年3月、ラーマ7世は人民党政府に対する攻撃的文言を ちりばめた退位表明を発表した。ときに42歳であった。 (『世界の歴史』―インドシナ文明の世界− P.273−271より抜粋) |
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| ラーマ8世(1935−1946) 1935年3月、ラーマ7世は退位したが、後継者を指名しなかったので、 王位継承法にしたがい、異母兄マヒドーン親王の長子で、当時スイスのローザンヌ に滞在中のアーナンタ=マヒドーンがラーマ8世王として即位した。1925年 生まれのアーナンタ王は、終戦(1945年)の9月に20歳の成年に達した。 摂政のプリディーはタイ国民の統合の象徴としての国王の存在が、戦争によって 荒廃した民心の安定に寄与することを期待して、国王の帰国を懇請する電報を送った。 国王はこれに対し、ローザンヌ大学法学部での学業を継続したいので短期間に限り という条件つきで、帰国を承諾した。実際に帰国した国王は、1946年6月10日 不慮の死を遂げられ、返らぬ人となった。タイの経済不安は一向に終息せず、国民 生活の窮乏は、政情の不安定をつのらせていった。
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