| チャクリー王朝 | ||||
| 去る4月6日は、「チャクリー王朝記念日」でした。西暦1782年に チャクリー将軍、すなわち、ラーマ1世によって、クルンテープに遷都され、 ラタナコーシン王朝が始まったわけです。アメリカ独立宣言(1776年)より 6年後,フランス革命(1789年)よりも7年前の話であります。その頃の日本 はと申しますと、「日本のレオナルド・ダ・ビンチ」と言われた平賀源内が数々の 発明・発見の後、獄死したり(1779)、浮世絵師の写楽が台頭し始めた頃でも あります。江戸時代でいいますと、第10代将軍徳川家治の頃であり、安永から 天明の時代にあたります。バンコクに遷都された時の描写がありますので、。 以下に転載させていただきます。 (註)『世界の歴史』<インドシナ文明の世界>(講談社)より抜粋(P.223) |
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| バンコク誕生 | ||||
| 1767年、ビルマの王によって首都アユタヤを蹂躙されたタイは、やがて 混血の英雄の出現によってその独立を回復した。アユタヤに移り住んだ潮州華僑を 父に持つタークシンは、同郷人の多い東南部タイにおいて反撃の態勢をととのえると、 百隻の軍艦に分乗した5000人の兵をひきいてチャオプラヤー川を遡上、激戦の末、 ビルマの大軍を撃破してアユタヤを解放した。 王位についたタークシン(1767−82)は、すでに瓦礫の山と化した 古都の再建をあきらめ、より河口に近い要衝トンブリを新都と定めた。 タークシンは15年にわたり各地に兵を派して国内の平定につとめたが、晩年、 精神錯乱におちいり、旧友であり、かつ腹心の将軍であったチャクリーに よって除かれ、トンブリ朝はわずか一代にして滅びた。 タークシンに代わって王位につき現王朝の祖となったチャクリーは、 都をトンブリから対岸に移した。これが今日の首都バンコクである。 正式名称は、「クルンテープ・マハーナコーン・ボーウォン・ラタナコーシン云々」 という百字を超える長ったらしい名前がある。現王朝はその首都名の一部をとって、 ラタナコーシン王朝あるいは始祖の名に因んでチャクリー王朝と呼ばれる。 新王宮の用地に選ばれたのが、プラヤー・ラーチャーセーティーという 欽賜名をもつ華僑の富豪の邸宅とその周囲の華僑街であったという「王朝年代記」 の一節は、当時のバンコクないしその対岸のトンブリという町の性格を反映して 興味がひかれる。この付近は在タイ架橋の貿易活動の中心的役割を果たす港 であった。ついでのことながら、接収された土地の代替地として与えられたのが、 今日の華僑街サンペンの起源である。ラーマ1世自身が「大商人」であったと いうことは、ナライ王のときアユタヤを訪れたフランス人の記録に見えているが、 王族達にもまた、外国との交易が許されていたのである。 次に、ラタナコーシン時代における国王9名の功績を、西暦と共に、簡単に列挙 してみます。<参考図書:『東南アジアを知る事典』(平凡社)> 石井米雄監修 |
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| ラーマ1世時代(1782−1809) 15年前に滅亡したアユタヤ朝の繁栄の再現を目指した王は、弛緩した仏教 サンガの規律を建て直し、『三印法典』を定めて国内秩序の基礎を固めた。また、 宮廷を中心に盛んに文芸を奨励し、『ラーマキエン』や『サームコック』(三国志演義) などの傑作を生み出させた。 * 1784年 ワット・プラケオ建立 1783年 天明の大飢饉 1786年 ペナン島をインドに奪われる 1787年 寛政の改革 1789年 フランス革命 1804年 ナポレオン帝位につく |
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| ラーマ2世時代(1809−1824) 詩文を好まれ、この治世はタイ古典文学史上の黄金時代であった。 * 1808年 間宮林蔵の樺太探検 |
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| ラーマ3世時代(1824−1851) 開国をせまる西欧諸国に対し、閉鎖的な姿勢を取り続け、門戸の開放を 迫るイギリスやアメリカに対して、和親条約を結ぶにとどまる。 * 1825年 異国船打払令(日本は攘夷と海防の強化) 1835年 宣教師ブラッドレーが活字と印刷機をタイに持ち込み 2年後、タイ初の新聞が発行される。 1841年 天保の改革(幕府改革) |
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| ラーマ4世時代(1851−1868) 最高位の王位継承権をもちながら、政治的理由で位を異母兄に譲り、王位に つくまで27年の僧院生活を送った。その間、フランス人神父との交遊を通じて キリスト教文明に触れ、アメリカ人宣教師から修得した英語を武器として積極的に 西洋の先進文明を学び、当時の開明的知識人グループの指導的役割を演じた。僧と しては旧態依然とした仏教を批判し、パーリ仏典への回帰を主張して、タマユット派 と呼ばれる復古的改革運動を起した。1851年国王に即位してからは、開放策に 転じ、イギリスとの修好通商条約(ボウリング条約)締結を契機として先進国と 次々に外交関係を結び、やがて息子のチュラロンコンによって推進されるタイ 近代化の基礎を築いた。 * 1853年 ペリー、浦賀に来航 |
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| ラーマ5世時代(1868−1910) 19世紀末から20世紀初頭にかけてイギリス、フランス両植民地主義 勢力対立のはざまにありながら、強力な指導性を発揮して<チャクリ改革>と呼ばれる 国内統治組織の近代化を達成し、タイの独立を全うした名君として知られる。 15歳で父王モンクットの後を継いだが、摂政統治の期間中にジャワ、シンガポール、 インド、ビルマを旅行し、植民地統治の実状視察を通じてヨーロッパ近代文明の吸収 に努めた。73年成年に達したチュラロンコンは漸進主義に基づいて諸制度の改革に 着手。地方行政組織の整備を重視した王は、中央集権的原理に基づく領域支配を可能 とする統治機構をつくり上げた。国家財政、法律、徴兵制、国民教育、郵便電信、 近代医療など近代国家の備えるべき諸制度の基礎は、すべて42年に及ぶ治世に形成 されたといってもよい。近代化政策の推進にあたっては積極的に外国人専門家を雇用 したが、求人先を分散させ、特定国の影響の過大化防止をはかった。タイ最大の総合 大学(チュラロンコン大学)は王の名前を冠したものであり、1917年に創設された。 * 1868年 明治維新 |
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